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慰霊登山 〜蔵王遭難〜mountain climbing for the repose of the souls

蔵王の悲劇が結ぶ縁 -- 仙台二高と柏崎高

  「君が仙台二高出身というのは、以前から知っていたので、機会を見つけて、ぜひ聞いてもらいたいと思っていた」───30年来のジャーナリスト仲間である松浦孝義さん(東京在住)が、こう切り出した。3月半ば、ある都内の立食パーティーで、久しぶりに、彼に再会した時のことだった。太平洋側と日本海側と、遠く隔てた宮城県仙台二高と新潟県柏崎高校が、蔵王遭難の悲劇の糸で、結びついているという、思いもつかない衝撃的事実だった。それは、涙を誘う感動の秘話でもあった。
 柏崎高校といえば、前身が旧制柏崎中で、創立104年の歴史があり、政、官、財、学の各界に幾多の人材を輩出している上越地方の名門校である。新潟県の平山征夫知事(現職)も同窓生である。皇太子妃・雅子さまの祖父、小和田毅さんが14代目の校長をつとめ、また父、小和田恒さん(国際司法裁判所判事、元国連大使)が2年余在学したことでも知られている。最近は、昨春の選抜高校野球に、21世紀枠で初出場して話題になり、北朝鮮拉致被害者の一人、蓮池薫さんの出身校として、つとに有名になっている。
 その柏崎高と仙台二高が、どうして?身を乗り出して聞き入る私に、数日後、松浦さんは“証拠”となる、柏崎中・柏崎高同窓会報や在京同窓会報など10数点の資料を届けてくれた。実は、彼自身が柏崎高の出身者で、私と同様に“人生の午後”を迎えた今、在京同窓会の事務局長を引き受け、会報の編集にも携わっているということもわかった。事実に詳しいのも道理である。
資料を一読して要約した結果を、お伝えしたい。両校を橋渡ししたのは、明治生まれの気骨の教育者、渡辺文敏さんである。渡辺さんは、旧制柏崎中の初代校長をつとめている。経歴をたどると、1870年(明治3年)山形県西田川郡鶴岡町まれ。高等師範学校卒業後、教職に就き、1900年(明治33年)に創立した柏崎中の初代校長となり、7年余在職した。その後、新潟・新発田中、秋田・本荘中、新潟中の校長を経て、1913年(大正2年)に仙台二中(旧制)に3代目の校長として迎えられている。つまり、時を隔てて、柏崎中と仙台二中の両校長をつとめていたのである。そして、仙台二中在職時に、あの悲劇に見舞われる。
 大正7年(1918年)10月23日、教諭4人が引率し151人の生徒が蔵王登山中に、大吹雪に閉じ込められ、道を見失った9人(生徒7人、教諭2人)が遭難死した痛ましい事件である。仙台二高(現在)側では今も、世紀を越えて言い伝えられ、供養を続けている創立以来の最大の悲劇である。渡辺校長は、この遭難の責任を取って48歳で職を辞している。引責辞任後、渡辺一家は東京・千駄ヶ谷に転居している。渡辺さんは、周囲から再三、再就職のすすめがあったが、すべて断り、ひたすら、犠牲者の鎮魂と慰霊につとめる日々で、二度と教壇に立つことはなかったという。
 渡辺さんの遺児で、三女の宮崎のぶ子さんが、創立90周年記念の柏崎高同窓会誌に手記を寄せている。その中から、遭難に関する記述を抜粋する。「父が仙台二中在職中、学生の修学旅行で、蔵王の山越えの時、とても痛ましい事件が起こってしまいました。それは、登山の途中、俄かな天候の激変で、大吹雪となり、ついに山中の石室の中で、二人の先生と七人の生徒が凍死してしまったのです。言葉も無いほどの悲しい事件が起こってしまいました。父は事件後の、いろいろな処理を果たし、済ませ、責任を取って退職し、家族は東京に移り住むことになりました。それからの父は、どなたのご親切な(再就職についての)お計らいも、断りつづけました。母は、これからの生活の事もあるだろうしと、とても父の態度を訝しく思ったそうです。しかし、ある機会に、父の真意を知り、父の胸中の傷み、悲しみの深さに胸うたれ、それからは何も言えなかった、と後になって母から聞かされました。それは『遺族の方々の心中を思えば、自分の事など、今はとても考えられぬ。亡くなった方々の冥福を心で祈らせてもらっている』と父が言っていたことを、どなたかからのお話で、母が知ったからとのことでした。私は豪放そうな父の、別の一面を知り、涙ぐんでしまったことを覚えております」
 ちなみに、仙台二中、二高100年史の中では、渡辺さんについて、以下のような記述がある。「大人(たいじん)の風貌があり、豪放に見えて細心周到なところがあり、威厳の中に温情のあった人である。学校経営に熱意を有し、教育内容の充実と校風の刷新に鋭意努力された。蔵王遭難事件で、責任をとり退職されたが、渡辺校長に対する非難はなかった」と。だが、渡辺さんの悲運の系譜は、ここで、とどまらなかった。柏崎を離れて、20年後の1928年(昭和3年)10月16日に、懐かしい柏崎中の講演に、講師として招かれている。講堂の演壇に立ち、全校生650人(該当、中25回〜29回)を前に創立当時の思い出や苦労話をしているうちに、突然、その場で倒れ、帰らぬ人となった。59年の数奇を極めた生涯であり、悲しくも劇的な最期であった。70周年記念誌には、その最期を眼前にした、当時の3年東組、堀田丈一さんの、学級日誌が掲載されている。「渡辺先生、壇上より倒らる。我等後輩のために、我校創立の輝かしき歴史を伝へられしに。我等、静に講堂を退出するや、期せずして校庭に集合せり。凡そ十分間といふものは、我等一人一人感慨にふける。教室に残れる皆の所へ、先生お亡くなりの報が伝はる。嗚呼、先生、無事なれと祈りしに。『柏中創立当初の学生は、実に熱があった。何事にも先生の力を借りずに、立派に行動した』───あの先生のお言葉、何条我等、大いに反省し、よく考へずにをられやぅぞ!」と。
 渡辺さんの三男、渡辺宏さんも「父は奇しくも、死所を懐かしい柏崎中に得ました」と手記を寄せている。「父が急死した時、渋谷区の千駄ヶ谷に住んでおり、私はまだ小学6年生でした。父が大きい古ぼけた革トランクを持ち、中折れ帽子に太いステッキをつき、柏崎に出かける姿を門まで見送りましたが、これが最後の別れとなりました」と綴っている。懐旧の心はずむ旅立ちだったと思えるのだが、時の定めは、暗転の終着駅を用意していた。
 「渡辺校長追思碑」──創立30周年を迎えた1930年(昭和5年)に、柏崎中の校舎の前庭に、故人の記念碑が立てられた。急逝をいたみ、功績をたたえる、追悼の言葉が刻まれている。柏崎高創立100周年記念の式典(2000年11月)に、三男宏さんなど、渡辺さんの遺族4人が招かれ、この記念碑に対面している。「父の碑が、私立の学校ならいざ知らず、公立の学校で、70年間も温かく、お守りいただことは、まったく感謝にたえません。」 宏さんは、用意した祝辞そっちのけで、感激の挨拶をしている。しかし、このレポートは、ここで終わらない。渡辺校長の蔵王遭難者への鎮魂の遺志が、遺児、宏さんに引き継がれていることを特記しなければならない。情報源の、松浦孝義さんの話によると、宏さんは、これまでに三度、蔵王に慰霊の登山をしている。一度と二度目は、遭難現場が確かめられず、引き帰したが、三度目に、やっと発見したそうである。タイムトンネルをくぐり抜けるようにして、現場に立ち、遭難者の魂と向き合い、父の痛恨の思いを直接伝え、冥福を祈ったのである。宏さんは、渡辺校長が仙台二中在職中に生まれた、仙台っ子であることも、蔵王参りを思い立たせた理由になっているかも知れない。宏さんは、神奈川県厚木市在住で、今年87歳になるが、時おり、柏崎高の在京同窓会の皆さんと、お酒を酌み交わし談笑するほど、お元気だそうだ。そして、高齢にもかかわらず、今年中に4度目の蔵王への慰霊登山をしたいと、計画を練っているとも、聞いている。
 私は、このレポートを柏崎高校側の資料と証言を中心に構成した。仙台二高側では知られることがなかった、渡辺校長の離校後の消息と、その志を継いだ遺児の慰霊の蔵王参りが、柏崎高校側で、いまだに語り継がれている現実に、心を震わされたからである。この秘められた遭難余話を、仙台二高の学校関係者や遭難者のご遺族に、ぜひ、お伝えしたいと思ったからである。一方、今度は遭難当事者、仙台二高側の100年史や同窓会報に記載された以外の資料、証言、エピソードを集めることができれば、それを柏崎高の同窓の皆さんや、渡辺校長のご遺族にお伝えしたい。渡辺校長が抱き続けた鎮魂の気持ちに応える意味でも。心当たりのある方は、連絡願いたい。
 そして、せっかく結ばれた柏崎高と仙台二高が、悲しみを乗り越えて交流を深めることができれば、と願っている。事情が許せば、遭難余話の語り部である三男、宏さんから、自らの心象風景をうかがうのも、いいかも知れない。何か、いい方策はないものか?まずは、仙台二中、二高の同窓の皆さんに、ボールを投げたい。いい知恵が浮かんだら、返球していただきたい。意見、感想も、お待ちしている。
以上、拙文のおつきあいに感謝し、筆を止める。

2004.5.14   千葉 英之(仙台二高4回卒、さいたま市在住)

蔵王の悲劇が結ぶ縁 -- 仙台二高と柏崎高 (WORD文書)

遺児、渡辺宏さんのご様子

 遺児、渡辺宏さんが病床で書き綴られた自筆のお手紙が、本日午後、柏崎高在京同窓会の松浦孝義事務局長宛てに届きました。仙台二高の同窓の皆さん宛てのメッセージも含まれていますので、要約してお知らせします。手紙は便箋3枚に横書きしたもので、筆跡も文体も、しっかりしていて、お元気になられた様子をうかがわせます。書き出しでは、小生の拙文をインターネットでコピーしたものを、ご覧になっていて、蔵王の悲劇を風化させないことに役立つようにと、願っておられます。
 そして、ご病気の経過については「3月25日に、脳梗塞の軽い症状で、北里病院に入院して半月。初めての車椅子の生活ですが、懸命な先生の最新式の治療法のお蔭で(経過は良好で)もう4〜5日で、リハビリに専念するため、推薦いただいた近くの(リハビリ専門の)病院に転院することになりました」書いておられます。
 そして、この間、仙台二高の同窓の皆さんから続々と、寄せられた資料、写真、お見舞いのメールなどは、すべて、奥さんが病床に届けてくださって、ご覧になったとのこと。そして、蔵王遭難の顛末(二中、二高百年史)については、「前途有為な、これから羽ばたく生徒たちと、その先生方が、雪に覆われた石室で、相抱きあって逝った姿は、崇高極まりなく、師弟愛の極限。私は拝読して、ただ、涙、涙、涙。何度もベッドの上で、涙を流しました」と綴られています。
 そして「亡父のことではない」と断りながら、亡くなった二人の教諭について「明治、大正時代の教育者の生きざまの一端を知ることができました」と。そして、このことが、「混迷せる(現在の)日本の教育の立て直しに役立つように」と願っておられます。最後に「東北第一の都、教育の盛んな県都の仙台二高と柏崎高校が、改めて結ばれたら──との思いでいっぱいです」とありました。
 なお、小生の拙文で触れましたが、宏さんは、これまで三回蔵王へ慰霊登山をなさっています。一回目は濃霧で引き返し、二回目は賽の河原の供養塔まで行き、三回目に、ようやく遭難現場の熊野岳の山頂にたどり着いたとのこと。その山頂の供養碑の前で撮られた“証拠写真”も、小生宛てに届けられましたので、いずれ皆さん、お目にかけます。 
 以上、ご報告まで。
千葉 英之 2004/4/15 

遭難余話その後

 「遭難余話」のその後の件。仙台の同窓会本部側の対応に大きな進展がありました。
 @小生のレポートの全文が、6月発行の同窓会報に掲載されます。
 A5/17に、同窓会の役員大友一郎氏(高6)と山岳部OB清野英一氏(高6)が柏崎高校を表敬訪問します。現地では、大歓迎です。
 B訪問の両氏に、現在の二高校長から柏崎高校長へのメッセージも託されます。今後両校の同窓、現役の交流が深まりそうです。 これに関連して、本日、小生から、仙台側にメールを送りました。北杜会の6月例会にも、参加するよう、呼びかけました。以下、ご参照ください。

仙台二高同窓会本部
高橋 正道 様  清野 英一 様  大友 一郎 様
                   5/14  千葉 英之
 感動の物語を完結させる最終編を綴ってくださっている皆さまに、改めて敬意を表し、感謝いたします。事の進展の速さに、驚き、新たな感激にひたっているところです。今回の柏崎高校訪問は、きっと実りある成果を、もたらすことでしょう。新緑の越後路、十分、気をつけて、行ってらっしゃい。ちょっと長くなりますが、ほかに、いくつか、お知らせ、お願いごとがあります。

 @高橋副会長からの、お手紙を拝受しました。名刺も頂戴しました。本番を迎える今後、よろしく、お願いいたします。
 A既に、お話ししたことですが、二高在京同窓会の「北杜会」では、6/16(水)の月例会に、高橋校長の遺児、渡辺宏さん(87歳)(*ご本人から正確な年齢の知らせがあり、同窓 会報の原稿を訂正済み)を招き、「蔵王遭難と父」と題して、お話を伺います。仙台の同窓会本部、山岳部OBの皆様にも、是非、ご参加いただきたいのです。
派遣かたをご検討ください。以下、北杜会のHPをご覧ください。
  http://www.hokuto-kai.info/220.html

 Bただ、宏さんの例会の出席は、ご快癒しだいです。ご本人は「私で、お役に立てるのかどうか?」と不安をもらしながらも「私にも故郷があることを、この年になって確認できました」(*ご本人は、渡辺校長在職時の仙台生まれ)と喜び、何とか体調を整え、出席したい旨の手紙を頂戴しています。小生は、来月はじめに、リハビリ中の、ご本人をお見舞いしご快癒のほどを、確かめて参ります。「北杜会」では、ぎりぎりまで待ち、もし、ご欠席の場合は、別の企画に切り替えるとのことです。

 C春日町の薬局店主、安積壮吉さんから、宏さん宛てのお手紙を預かりました。遭難者の一人、安積寅雄さんは「母の弟」との
ことです。紅谷さんから、小生の拙文のコピーを頂戴したとのことです。宏さんに手紙をお届けしておきます。よろしく、壮吉さんにお伝えしてください。

 D今後、おそらく、河北新報など、報道メディアからの取材があると思います。その際は、仙台の同窓会本部に対応していただくように、お願いします。小生は、黒子として、引き続き、柏崎とのパイプ役に徹しますので、何なりと、ご用がある時は、おっしゃってください。

 E小生は、別件の私用で、たまたま、来週の18、19の両日、山形に行くことになりました。ついでに、死亡説の流れていた同期の月田文和君(高4、山岳部OB)に会うことにしました。月田君も、今回の経緯を、たいへん喜んでいます。
 以上
5/14 千葉英之(高4) 

遭難余話続報

 仙台二高と柏崎高を縁結びした「蔵王遭難余話」が今秋、最終章に入ることになりました。余話の主人公、渡辺宏さん(87歳、厚木市在住)が10/14〜16の日程で来仙し、二高を表敬訪問し、第5回の慰霊登山をする運びです。事、ここに至るまで、北杜会をはじめとする多くの同窓の皆様から、温かいご支援、ご協力をいただきました。宏さんともども、筆者も、心よりお礼申し上げます。この間のエピソードは、盛りだくさんで、とても、一言、二言では、言い尽くせませんので、時系列的に整理し、続報として、レポートにまとめてみました。それを添付(5p)しましたので、関心のある方は、どうぞご一読ください。 
 以上、お礼とご報告まで。 
 10/6 千葉英之(高4)  

87歳。感涙にむせぶ慰霊登頂 (「蔵王の悲劇が結ぶ縁──仙台二高と柏崎高」の続編)

 仙台二高と柏崎高校を縁結びした「蔵王遭難余話」の主人公、渡辺宏さん(87歳、神奈川県厚木市在住)は10月 16日午後、好天に恵まれた蔵王連峰の主峰、熊野岳(1841m)の慰霊登頂に成功しました。そして、大正7年10月23日に遭 難死した旧制、仙台二中の生徒、教諭9人の供養碑に鎮魂の祈りを捧げました。
 これには、月田文和さん(高4)が指揮する二高山岳部OBのサポートチーム(4人)が、万全の体制で随伴しました。このほか、大友一郎二高同窓会常任委員、松浦孝義柏崎高東京同窓会事務局長など6人も同伴しました。病を克服した渡辺宏さんは、サポートチームに前後左右を守られながらも、登下山とも全コース、自力で歩き通す元気さ。登頂成功の際は、同行者が一斉に拍手。宏さんの感涙にむせぶ挨拶に、一同、思わず、もらい泣きしました。宏さんに続き一同、合掌した後、二高校歌を斉唱して下山しました。
 下山の時は、犠牲者の霊を包み込むように、頂上一面に、白い霧が立ち込めていました。これに先立ち、宏さんは夫人を伴ない、前日の15日に仙台二高を訪問し、校内の鎮魂碑に献花、「宏さんを囲む会」に出席。ここで、佐藤隆信校長、高橋正道副会長、安積壮吉遺族会代表などと対面しました。また、当日の登山の前に、賽の河原の蔵王寺で、催された犠牲者の法要(同窓会主催)にも参列しました。この宏さんの仙台、蔵王での一部始終を撮影した記録写真が、仙台在住の同窓生、清野英一さん(高6、山岳部OB)から、北杜会に提供されました。早速、北杜会のHPに掲載されました。
 宏さんは遭難当時の二中校長、渡辺文敏先生の三男。文敏先生は引責辞職し,一家で東京に転居した後、教職に戻ることなく、生涯、極貧の中で、ひたすら犠牲者の鎮魂と慰霊につとめる日々を送りました。父の遺志を継いだ宏さんの蔵王参りは、これで通算5回目。前4回は二高側に知られることなく続けられていました。しかし、今春、5回目の計画が、文敏先生の前任校の新潟柏崎高校同窓会から伝えられたことにより、二高同窓会側に全面支援・協力の気運が盛り上がり、この日を迎えました。北杜会が6月に開催した「渡辺宏さんを囲み励ます会」がその口火を切る結果となりました。(HP既報、拙稿「蔵王の悲劇が結ぶ縁──仙台
二高と柏崎高」を参照)渡辺宏さんともども、筆者としても、改めて感謝申し上げます。
 なおこの感激の慰霊登山は、現地、報道陣も同行取材し、その模様は東北放送TVの「ニュースの森」で放映されるほか、河北新報、サンケイ新聞宮城版などにも掲載される予定です。
 以上
 記録写真 清野英一氏(高6)撮影  
 記  事 千葉英之氏(高4)執筆  

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産経新聞記事(2011年11月4日)

蔵王慰霊登山に感動の余韻 卆寿祝いの色紙とメモリアル登頂

 2006年12月2日。快晴の朝、電話が入った。「今日、90歳の誕生日を迎えました。仙台二高の皆さんのおかげで、生き長らえています。先に頂戴した卆寿祝いの色紙の、一言一言を読み返しては感動しています。有難うございました」??????蔵王慰霊登山の主人公、渡辺宏翁(神奈川県厚木市在住)の、しっかりした口調だった。渡辺さんは卆寿を迎えて、なお食欲旺盛で、気力、体力も充実し、いたって元気に日々を過ごし、「90過ぎても、もう一度登りたい」という夢を持ち続けているほどである。
 さて、この秋は、慰霊登山のサポートに中心的役割を果たした仙台二高と新潟・柏崎高の同窓生の有志が、渡辺さんの卆寿の祝いと、鎮魂の想いを重ねて、ささやかながら、心を込めた、二つの企画を実行に移した。当事者の一人として一筆し、ご報告したい。
 まず、蔵王慰霊登山の経緯については、既に、北杜会と二高のHP、さらには同窓会報を通じて数度にわたり、お知らせしたので、ここでは詳述を避け、手短に説明したい。
 母校開校以来の最大の悲劇といわれる、蔵王遭難事故は1918年10月23日に起きた。旧制仙台二中の修学登山隊が、熊野岳付近で悪天候に見舞われ、生徒7人と教諭2人の命が奪われたのである。当時の渡辺文敏校長は引責辞任し、生涯、遭難者の供養と鎮魂の日々を送った。渡辺宏翁は、文敏校長の三男で、父の遺志を引き継ぎ、人知れず蔵王を訪れては、慰霊登山を続けていた。
 それが、初めて二高側に知らされたのは、宏さんが5回目の慰霊登山を計画している時点だった。柏崎高校(文敏校長の前任校)のOB、松浦孝義さん(東京同窓会事務局長、高7)から筆者(千葉)経由で、その情報が二高側に伝えられたのである。
二高側は、学校と同窓会が、ただちに呼応し、挙げて5回目の慰霊登山を支援する体制を整えた。そして、2004年10月16日、二高山岳部OBを中心としたサポートチームに支えられながら、宏さんは5回目の慰霊登山を成功させた。熊野岳の山頂で、慰霊碑に合掌し、感涙にむせぶ宏さんを包み込むように、サポートチームが斉唱する二高校歌が、静に流れて行ったのである。
5回目の慰霊登山は、宏さんが87歳の時だった。それから3年が過ぎ卆寿を迎えることとなった。そのお祝いに、寄せ書きの色紙を贈ることが決まったのは、筆者(さいたま市在住)が、仙台の実家の墓参りに行った折に合わせて、慰霊登山の同志と久しぶりに懇談した時(10月11日)のことだ。清野英一さん(高6)、大友一郎さん(高6)、我妻道也さん(高4)の3人の諸兄と、席を共にし、衆議一決となった。
 その翌日、筆者は山形に行き、サポート隊長をつとめた月田文和さん(高4
山岳部OB)と会い、快諾を得た。その際、月田さんから、これとは別に、メモリアル登山の案も出され、すぐ実行されたが、これについては後述する。

挿絵は甲子園出場の名一塁手
  まず、色紙の中央には、蔵王山麓で画廊を開く我妻征光さん(高9)が水彩で、お釜に青い水をたたえた蔵王の風景を描き、「祝 渡辺翁卆寿」の筆。
 (註:我妻征光さんは、野球部で大活躍。甲子園でベスト8に進出した時の一塁手(6番)である。我妻道也さんは兄で、兄弟揃って慰霊登山に随伴した)
 そして、その蔵王の絵を囲み、有志の皆さんが万感を込めて、書き込みをしている。以下、敬称略で紹介しよう。

* 高橋 正道(高3):「良き伝統を思い起させていただき、感謝で一杯です」
(註:高橋さんは当時の同窓会副会長で、蔵王慰霊登山プロジェクトの総指揮を執った)
* 月田 文和(高4):「みちのくを ふりわけざまに そびえたもう 蔵王の山の雲の中に立つ。渡辺さんに会えて、蔵王は二中、二高の山と、改めて実感しました」
(註:月田さんは、遭難者33回忌碑を制作した八幡町の月田石材店の子息である。これを、月田さんを含む当時の山岳部員が頂上に背負い上げた)
* 大友 一郎(高6):「私の人生で、最高の感動と幸せを----。ありがとうございました」
(註:大友さんは母校創立100周年と、遭難者80回忌に合わせて、同窓会の担当役員として、遭難者の墓地の確認と、遺族の消息を追い、克明なリストを作成した。なお大友さんと清野さんは、二高同窓会代表として、04年5月17日に、柏崎高を表敬訪問し、渡辺・初代校長の追偲碑に献花している)
* 我妻 道也(高4):「霧深き蔵王に歌いし、鎮魂の校歌、友垣、永遠に忘れじ??????。いつまでも、お元気で!」
* 清野 英一(高6):「九合目ですね。頂上(百歳)めざしガンバロー。登山で大事なこと????無事下山(百歳後)。庄内魂でガンバラネバ庄内!」
(註:渡辺宏さんは庄内藩士の末裔。渡辺家に家宝として伝わる貴重な武家古文書多数を、慰霊登山支援のお礼として後日、二高図書館に寄贈した。)
* 安積 壮吉:「皆さんに、感謝」
(註:安積さんは遭難者遺族の代表として、一連のセレモニーに参加した)
* 鈴木 壮夫(高11):「蔵王池の傍で“文武一道”を思う。これが唯一の心の支えです」
(註:鈴木さんは、東京同窓会懇談会「北杜会」の世話人代表。04年6月例会に、渡辺翁を講師に招き「蔵王遭難の父???男の生きざま」と題して、一部始終を明かしてもらい、慰霊登山支援活動の先鞭をつけた。)
* 国安 泰致(高4)「縁の妙。中西利徳の孫」
(註:中西利徳先生=国漢担当=は、渡辺校長の前任校、旧制柏崎中(現在柏崎高)以来の腹心の部下。校長に伴って旧制仙台二中に赴任。退職後、青葉神社の神主となった。国安さんは、その孫にあたるという奇縁)
* 松浦 孝義(柏崎高7)「蔵王を思い出します。大いに長生を願っています」
(*柏崎高OBの松浦さんは、旧制柏崎中の初代校長であった、渡辺校長の足跡を追っているうちに、旧制二中の蔵王遭難事件で引責辞任したことがわかり、さらに三男の宏さんと接触し、全容を突き止めた。この情報を筆者に伝えたのである。松浦さんは二高側の一連の慰霊プロジェクトに、柏崎高同窓会代表として、二度来仙して参加し、蔵王慰霊登山にも随伴している)
* 千葉 英之(高4)「悠久!心の架け橋。仙台二高??蔵王??柏崎高」

二高創立110周年にもう一度!
 色紙を届けるアンカー役は、首都圏在住の国安泰致、松浦孝義の両兄と筆者の3人に回ってきた。卆寿の誕生日の前週、11月28日の昼に、ご自宅近くのレストランで、渡辺宏・俊子夫妻に久しぶりに、お会いし歓談した。お互い、つのる話が、なかなか尽きず、4時間余りに及ぶ長丁場となった。
 俊子さんは今年8月に77歳の喜寿を迎えていて、夫妻には二重のおめでたとなった。「八十路越え 共に手を取り 辿る坂道」????宏さんは、席上、こんな自筆の書を示し、夫妻の心境を明かした。
 色紙を贈られた宏さんは、ただただ感激の面持ち。「まったく予期していなかった贈り物。ほんとうに有難いことです。真ん中の蔵王の絵がカラーで描かれていて、とてもきれいですね。写真で見る以上に胸を打たれます。思い出がぎっしり詰まっている山です」と、懐かしげ。
 そして、寄せ書きについては、ゆっくり、ゆっくり目を通す。「お一人、お一人、よく、お顔を覚えていますよ。感慨深い、お言葉が並んでいますね。これほどまでに、至らぬ私を支え、なお力強く激励してくださる皆さん。涙が枯れるほど嬉しく、感動しています」
 そして、今後については「事情が許せば、元気なうちに、毎年でも登りたいのですが--------、特に目指しているのが4年後の2010年なのです。この年に、仙台二高も、柏崎高も、共に創立110周年を迎えます。できれば、もう一度、皆さんのお力添えを得てと、勝手ながら思っているのです。でも、年ごとに体力が落ちていることは自覚しているので、どうなりますことか?」
 この発言について、俊子さんは「まぁ、夢を持ち続けることが、生きがいになるのでたしら、結構でしょう」と、にこやかに応じていた。
 さて、渡辺家の近況だが------。これまで、夫妻二人だけの暮らしだったが、今年から、同居の家族が一人増えた。サラリーマンで、転勤族だった長男の康一郎さんが、東京本社勤務となり、帰ってきたのである。「これで、とても安心しました。何かにつけて-----」と俊子さん。
 康一郎さんは、宏さんの4回目の慰霊登山(90年8月)の折に、俊子さんと一緒に随伴し、頂上の慰霊碑に線香をたむけている。「祖父の遺志を孫に伝えたい」という父、宏さんの気持ちを受け止めての同行だった。渡辺家三代に伝わる慰霊、鎮魂の遺志に、感動を禁じ得ない。
 宏さんは、5回目の慰霊登山の前日に、二高で行なわれた遭難者の供養式典で「どうか、父(文敏校長)を許してください」と、涙ながらに訴えたが、誰が、それを責められるのだろうか?遭難当時から、責めた人はいないし、今後とも責める人はいないだろう。

「渡辺腰掛の岩」に校旗
 色紙の寄せ書き集めに併行して、メモリアル登山が行なわれた。
慰霊登山サポート隊長の月田文和さんの提案だった。筆者が山形で会った時に、それを聞かされた。5回目の慰霊登山の日(04年10月16日)は、ちょうど文敏校長の命日でもあった。文敏校長は晩年、初代校長をつとめた旧制柏崎中に招かれ、全校生を前に講演中、演壇で倒れ帰らぬ人となった。柏崎高の同窓会誌に、蔵王遭難と合わせて「生涯、二度の悲劇に会った校長」と言い伝えられている所以である。
 月田さんは、このことを、よく承知していて「遭難者と合わせて、文敏校長の供養にもなるので、10月16日に登ろう」と言い出したのである。といっても、筆者と会った4日後に、その日が迫っていた。人を集めるのに時間がなさ過ぎると思ったら、「急なことなので、山岳部後輩の清野君と二人だけで登りたい。清野君を誘ってくれないか?」という指示。そのことを伝えたら、清野さんが快諾、ただちに実行に移された。(註:この件は、近刊の二高同窓会報に、清野さんが寄稿しているので、参照を)
 月田、清野両兄からの報告によると------。その日は「天気晴朗なれど、風強し」で、時折、ガスが立ち込めて、視界が遮られたが、コンディションは良好。
 熊野岳の慰霊碑に、持参した月田家の庭の花を捧げて合掌したとのこと。
その場で、二人が話し合い、この日を「渡辺登山の日」と名づけ、毎年、継続して登ることに決めたという。この件について、清野さんは同窓会報で、広く賛同者を募っている。その前に、クチコミで知って、名乗りを挙げてきた山岳部OBの仲間もいるというので、来年からは、二人だけのメモリアル登山では、なくなりそうだ。
 さて、出発前に「何か注文はないか?」と月田さんから、メールが入った。
そこで思い出した。宏さんの登山に随伴した時、宏さんは、周囲の心配をよそに、すこぶる元気に、杖一本で、すたすたと歩き、途中一度、休憩しただけだった。具合のいい岩に腰を掛け、月田隊長が差し出すコーヒーを美味しそうに口にふくめた。その姿が印象的だったので「その岩の写真を撮ってほしい」と、筆者から返信した。
 清野さんが、デジカメで撮影した、その岩の写真が送られてきた。「渡辺腰掛の岩」というキャプション付きで。なるほど、二高OBの山男たちには、新しい名所になるかも?と思ったりもした。
 ほかの写真の中には、山頂で「庄内士魂と共に!北陵健児」と大きく書き込んだポスターをかざしたツーショットもある。庄内藩士をルーツに持つ、渡辺家へ敬意を表し、明治生まれの文敏校長と、大正生まれの宏さんの気骨をたたえたものだろう。

後世に伝える臨場感に満ちた記録
 さて、慰霊登山の後、支援のお礼と記念にと、渡辺宏さんは、代々家宝として伝わる庄内藩ゆかりの古文書60点を二高図書館に寄贈した。この中には幕末、明治維新の、日本の激動、変革の時代を垣間見ることができる記録、絵図類も多数含まれている。生徒たちが、日本の中世、近代史を、東北の視点から学ぶための貴重な教材になるに違いない。この古文書類の贈呈式は2005年7月2日に、二高校長室で行なわれ、宏さんから柏葉浩明校長に一括して贈られた。これは、北杜会や同窓会HPで、既にお知らせした通りである。
 実は、これに追加して、同年12月5日に、渡辺家所蔵の古文献3点が二高に贈られていた。この件は、このHPでは未発表だったので、触れておきたい。
 この3点は、いずれも、蔵王遭難に関わるものだった。
「蔵王山遭難顛末報告書」が2通。その一通は、遭難直後の1918年10月の日付入りで、63ページに及ぶ。もう一通は一か月遅れの11月の日付で45ページ。いずれも謄写版刷りである。学校側が、当時の県庁と文部省に提出した顛末書の校長控えと思われる。この二通によると、修学登山隊の一行は10月22日に青根温泉に宿泊。翌23日朝6時30分に、一行151人が4小隊に分かれて、宿を出発。気温12度、東風1メートル、曇り。「天候は平穏、危険なし」と旅館主。案内人も「晴天であらざるも、大丈夫なり」と言う。9時に地蔵滝着、休憩30分。出発後、小雨が降り出す。「降ってきますが、風がなく仕合わせです」と案内人。11時に刈田岳に到達、15分休憩して、昼食。そして、11時50分に熊野岳に登ったところで、「風雨強烈にして、休憩不可能なりき。休憩地点を捜しつつ下れり」とある。
そして、ワサ小屋に着いた時、「案内者ここより帰る」「ワラジ替えのため20分停滞」という記述も。そして、地蔵岳を右に見ながら、熊野岳より32町(1時間半余)の13時30分の地点で、人員点呼し、はじめて落伍者がいることに気づく。50分、未着者を待ったが来ない。風雨やまず、寒気が強まり、そのまま歩き出し、16時10分に山形・高湯に着いている。
 二通の顛末書には、一行の径路略図や、遭難地付近の地形図も添えられている。そして、涙を誘うのは、二つの遭難現場で発見された犠牲者の遺体の様子が、イラストで描かれていることである。教諭が両脇に、しっかり生徒を抱えている姿は、師弟愛の極みと言わざるを得ない。
 そして、もう一通は、渡辺校長の命により、現地に急派された教諭の報告書で、11月3日の日付、20ページにわたる。これも克明な記録である。
 これらの3通に、仔細に目を通せば、二中・二高百年史などの記述にはない、遭難の新事実が発見されるかも知れない。渡辺宏さんによると、まだ遭難関係の資料が家に残されているという。整理がつき次第、さらに追加して、二高側
に贈りたいとのことだ。
 もう88年も昔になる、蔵王の悲劇だが、風化させてはなるまい。結果責任を負った一校長の辞任だけで、一件落着とされていいのだろうか。この遭難には謎が多く残されている。なぜ、寒波が迫りつつあるこの時期に、敢えて修学登山を決行したのか?それには、もしかしたら、外圧があったのか?現地での実際の指揮権は、いったい誰が握っていたのか?なぜ、天候急変の中、山に詳しい案内人を帰してしまったのか?なぜ、案内人は引き返す途中で、後続の遭難者と出会わなかったのか?--------などなど。当時としては、真相究明が難しい、時代背景があったのかも知れない。あるいは、渡辺文敏校長は、真実を突き止めた上で、それを、すべて胸にしまい込み、墓場まで持って行ったのかも知れない。
 これらの古文献が、真実を解き明かす鍵の一つになっていることは確かだろう。報告する側が活字にできなかった想いを、行間から読み取る必要もあるのではないか。後世に解明を委ねるためにも、母校には、大事に保存していただきたいと、切にお願いしたい。
  以上
 
2006年12月4日
(文)   千葉 英之 (高4回)
(写真)  清野 英一 (高6回)
      国安 泰致 (高4回)

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